~ 理事長のブログ ~

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2021年05月28日(金)

南房総へのアクセス

父・松永春二が交通事故を起こして入院したのが1995年6月。
入院した病院で、父は壊れて行きました。あれから26年、早いものです。
千倉を捨てて東京でやって行こうと決めていたのに、千倉に戻ってしまいました。



江戸川区小岩に住んでいて、東京の病院に勤めていましたので、朝4時過ぎに起きて朝一番の快速電車に乗って千倉を目指し、朝8時過ぎに松永医院に到着。午前中に外来と往診を行い、午後1時千倉発の特急に乗りこみ、東京の病院に着くのが午後4時前。

午後4時は病院の閉店準備時間前となり、日勤と準夜の看護師が申し送りの準備をする時間帯です。そんな時間に、私は仕事開始です。患者さんの様子を見て健康チェックをし、翌日の検査のオーダーを出し、病院を出るのが深夜。そんな毎日を送っていました。

これでは体が壊れてしまうと思いながら、外科医である妹の力も借りて松永医院の診療を続けました。次第に千倉への流れは強くなり、私は松永医院を守り、妹は父母を守り松永医院も手伝い、兄は全ての雑用をしてくれました。あの頃は大変でしたが、今となれば懐かしいです。



電車通勤から車での通勤に変わり、アクアラインが開通したのが1997年12月18日でしたので、それまでは千葉経由にてお江戸との行帰りをしていました。館山道も最初は姉ヶ崎までしか通っていなかったので、途中は山の中を通り久留里城経由で通勤していました。

その内に館山道は木更津南、そして君津まで延び、房総スカイラインを通り、君津、鴨川の山の中を走り抜けました。国道410号、君鴨トンネルができる前は酷道410号とも呼ばれ、大型車は通れませんでした。鴨川国保病院、みんなみの里、清和県民の森などがあります。

死ぬほどの交通事故を2回起こしました。一度目は、深夜に酔っ払い運転の車が突然飛び出してきて車両火災。警察と救急車と消防車と青年団が出てきました。とっても賑やかでした。二度目は、山道をドリフト走行して失敗。田んぼの中に飛び込み、ソフトランディング。

でも、今は私の背中には私の家族、スタッフ、そしてその家族が乗っていると考えています。だから、安全運転を心がけています。と言いながら「何人たりともオラの前を行かせない!」父親譲りの性格があるので、チアプリドを服用するべきかどうか迷っております。



2007年に君津IC―富津中央ICがつながり、館山道全線が開通になりました。
1997年のアクアライン開通とあわせて、とっても便利になりました。
自宅から東京駅まで1時間半あれば余裕のヨッチャンです。最短1時間10分です。

私が小さいころ、東京へ行くのは電車と決まっていました。小学生の時に、内房線が全線電化され、汽車から電車へ。はじめは両国駅が終点、隅田川が渡れませんでした。
その内に東京駅地下深いところにプラットフォームができ、歩く歩道を始めて歩きました。

受験生の時、模擬試験が終わって電車の中で友人と答え合わせをしながらスったもんだ。
木更津駅のバーベキュー弁当、旨かったす。今となれば、懐かしいす。
今、東京への特急さざなみはなくなっちゃいました。



現在、東京へのアクセスは高速バス「なのはな号」が用いられています。1時間に2本ほどと便利になりました。かつて東京まで3時間以上かかっていたのが、バスで2時間ほど。
しかし、駅弁を食べながら、ビールを飲んで話をする風景は、無くなってしまいました。

この25年間、南房総へのアクセスは早く、便利になりました。東京、千葉への通勤、通学が可能となり、週末はアクアライン渋滞が必発となっています。都会の刺激的、高回転型の生活と、田舎のスローライフを同時に味わうことができる時代が到来しています。

みなさんも、山と海が近く自然豊かで、風光明媚な南房総で魂の深呼吸をしてみませんか。


2021年05月16日(日)

ワクチンパスポート

突然、新型コロナワクチンの接種が松永醫院でスタートできるようです。
6月1日から接種できるように準備を開始しています。
新型コロナから命を守る方法は、治療薬がないのでワクチン接種しかないです。

マスコミの情報を観ていると、緊急事態宣言やらまん延防止等重点措置などで経営が行き詰まり、経済が破綻するのでは・・・などと報じられています。感染症は第4波を抑えても、第5波、第6波、・・・と感染の波が必ず、この数年は押し寄せてきます。続くのです。

それを断ち切るのがワクチン接種です。とにかく、ワクチン接種すれば、普通の風邪に。
変異株の新型コロナウイルスにも効きます。イスラエルも、イギリスも、アメリカもワクチン接種が進み、新規感染も減り、精神的にも穏やかになってきています。

なのに、日本では根本的解決策であるワクチン接種を強く奨める報道が少ないのが不思議でなりません。ワクチンの輸入量が少ないため接種できない環境が続き、混乱を避けるためでしょうか。でも、どうやら、やっと、ワクチンが結構な量が届くようです。

サテライト型ワクチン接種医療機関で個別接種が始まります。松永醫院もサテライト型にエントリーしております。一日でどのくらいワクチン接種できるかは、医師の考えにも左右されます。私自身は、インフルエンザワクチンと同様に多く接種できると考えています。

7月末までに高齢者のワクチン接種を終わらせたいという国の方針ですが、松永醫院では6月中に、遅くとも7月の東京オリンピックまでには終わらせるよう気合を入れております。
これで、介護施設を運営しておりますので高齢者の命を守れます。

という私も昨日、新型コロナワクチン「コミナティ」2回目を接種しました。これで安心。
1回目は、数日程、接種部位が痛かったです。発赤腫脹はなく、へのカッパでした。
2回目、昨日5月15日接種。現在、ほんの少しだけ辛いです。

本日、少しだけだるく、熱を測ってみたら37.0℃。日頃、36度台前半なので微熱が出ております。節々も痛くはないのですが、少し重く、動くのが少ししんどく、怠いです。
食欲も、昨夕が飲み過ぎ、食べ過ぎのためか、ワクチンのせいか、少し低下しています。

ご主人様から「大袈裟!だらしがない!」としかられました。
いやいや、ワクチンのおかげで免疫が賦活され、mRNAからコロナ表面のスパイクタンパクがどんどん作られ、体液性免疫、細胞性免疫がどんどん作られるでしょう。

COVID‐19の臨床像は様々で、無症状の人もいれば、重傷肺炎になって亡くなる人もいます。なにが、重症化を決める要因となるのだろう。もし、私が新型コロナにかかったら、ワクチンの副反応が起きたことから、私は重症化する体質なのかもしれません。

治療薬がない現在、唯一の命を守る方法がワクチン接種のみです。
アメリカのワクチンがとにかく強烈に効きます。変異株にも効きます。
ワクチンを打てば、怖い新型コロナが普通の風邪に変わるのです。

多くの人が早くワクチンを打って、落ち着いて、東京オリンピックを開きましょう。
去年できなかった笑顔グループの年末恒例の忘年会を盛大に開こう。
また、人と人とがつながり、肌の温もりを伝えあえ、支え合う社会を取り戻そう。

COVID‐19に対するワクチンがあって良かった。唯一の命の守ることができるのが、ワクチン接種のみ。短期間に、このワクチンを創って下さった製薬会社に感謝します。
おそらく、今回のワクチンを創って下さった科学者達にノーベル賞が授与されるだろう。

私たちは、もう少しワクチンや薬に対して感謝の念を持つべきであろう。
製薬会社の大切なミッションは「創薬」、「創ワクチン」。
良い薬、ワクチンを開発していただくために、私たちは先発製薬会社を守る必要があります。



新型コロナワクチン接種記録書は、ワクチンパスポート。
海外に行く時には必要になるでしょう。病院を受診する時にも必要でしょう。施設の家族に会いに行く時にも必要でしょう。映画や劇を観る時にも必要になるでしょう。

これから問題になるのは、15歳以下のワクチン接種非対象の子供たち。学校が感染の場になりえます。私は、これからワクチン接種対象年齢を引き下げて、どんどん子供たちにもワクチン接種するしかないと考えています。




2021年05月03日(月)

平成の時代が終わった

25年以上通っていた東京の病院を辞める決意をしました。
平成の時代が終わった。。。



平成4年、私が東京医科歯科大学を卒業した年です。
その当時、医学部を卒業したら大学医局に入るのが当たり前で、医局以外の道を選ぶのは稀でした。私の同級生で医局以外の道を選んだのは、卒業生86名中なんとたったの1名です。

その同級生の名は「ボク」。変わった奴で「ヘータ」とも言います。
一度大学を卒業した後、医学部に入りなおしておりますので、少々歳を取っています。
でも、大学中退、卒業生が30名ほどもいた中で、学卒で一番歳が若かったのが私でした。

大学に残ると、臨床、教育、研究が3本柱になります。昼間は病院で臨床を行い、夜9時ころに研究棟へ行き深夜まで実験を行う毎日が待っています。私は遠回りをした分、ノーベル賞をあきらめ、早く地域医療を極めたい思いがあり、大学を出ることを決意しました。

そして、大学を出て入職したのが全日本民主医療機関連合会(通称:民医連)、赤い病院と言われ共産党関連の医療機関でした。健和会という医療法人で、みさと健和病院、北千住にある柳原病院がセンター病院となっています。ちなみに、私は共産党員ではないです。

学生時代に住んでいた江戸川区小岩から通えて、先端医療ではなく地べたの地域医療を、専門医ではなく何でも診る総合医を目指し、病院だけではなく地域の中に入り込んで地域医療を行いたかったからです。また、民医連の考え方に違和感がなかったからです。

同期の研修医はいなく、私独りボッチでした。仲間がいないのは寂しいものです。
主な研修病院は、北千住にある柳原病院という隅田川と荒川に囲まれた地域の病院です。
父がぶっ倒れて千倉に戻っても、私は毎週水曜日に、この柳原病院へ通っていました。

開業医は日進月歩の医学に乗り遅れやすく、医学的バランスを維持することが難しく、カビ易く、腐り易い。ならば、医学の窓を開き、外の空気を取り入れ、バランスの良い知識を保ち、新しい医学的知識をえるために東京の病院へ毎週水曜日、研修に通いました。

結局、東京の病院へ25年間以上通いました。25年以上、結構な長さです。
これだけの長さ、千倉と東京の間を行ったり来たりできたのは、私を待つ患者さんがいたからだと思います。目の前の患者さんを振り切って千倉に戻ることができなかったからです。

目の前の患者さんの10年未来の命を守ること、これが私の信条です。
普通の医師は、研修という理由で目の前の患者さんを振り切って次の研修病院へ移って行きます。でも、私にはこのことができませんでした。



私は、父・松永春二の跡を継いだヘッポコ二代目町医者です。私の主戦場は、千倉です。
千倉が主ですが、週1日・水曜日に東京へ行き隙間をつくってきました。千倉にとっては、水曜日は松永平太がいないので空白の一日になっていました。

私が千倉に戻ってから、通所サービス、グループホーム、老人保健施設などの介護保険サービス事業所を創って医療と介護の連携を図り、良いチームケアを目指してやってきました。
より良い理想のチームケアを目指していますが、それには時間が足りません。



今、私が一番問題だと思っていることは、医師会活動が未熟であることです。
狭義の地域医療に留まるだけでなく、地域の人と行政と一緒になりながら地域共生社会の実現を目指し、子供たちが豊かな人間になるよう教育の場にも出て行きたいと考えます。

今の私、時間が足りないことが問題です。千倉にドップリつかる時間をもっと作ることです。
還暦を過ぎた私は、そろそろ松永平太の理想の医療の集大成を考える時期が来ています。
そのために、週1回水曜日の東京研修を辞めることを決意しました。

東京の患者さん、私がいなくても川人先生、山内先生がしっかりと診てくださります。
25年という重みを感じますが、これから行うべきミッションを考えると決断すべき時が来たのだと思います。私にとって、実りある平成の時代が終わった感を持ちます。


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